Kadoさんのブログ

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『加藤周一』を読む

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海老坂武『加藤周一:二十世紀を問う』

加藤周一:二十世紀を問う / 海老坂武
岩波書店、2013 241, 2p (岩波新書

はじめに―加藤周一を読むこと
第1章 〈観察者〉の誕生…1
第2章 戦後の出発…35
第3章 〈西洋見物〉の土産…77
第4章 雑種文化論の時代…109
第5章 1960年代―外からの視線…129
第6章 〈日本的なもの〉とは何か―〈精神の開国〉への問い…171
第7章 希望の灯をともす…205
あとがき…237
加藤周一略年譜

■アンガジュマンがでてくるところ

  • p42:やがて加藤周一の世界からは「人民の中へ」といったスローガンは消えていく。また日本否定の過激な言説も消えていく。しかし、現実とかかわるという一点において、彼が退くことはないはずだ。その意味で、『1946・文学的考察』は、加藤周一における〈知的アンガジュマン〉の記念すべき第一歩、と位置づけることができよう。
  • p75:いずれにせよこの最初の長編小説は、「In egoistos」において提示したような形の小説にはならなかった。その意味では失敗作である。ただ私はむしろ、サルトルが若きフロベールの青年期の著作について使った言葉を当てはめ、『ある晴れた日に』は加藤周一における戦争体験の〈全体化〉の試み、自己の感情、心理、思想のすべてを表現の中に投げ込むアンガジュマンの試みと言ってみたい。こうした〈全体化〉の試みを加藤はその後『運命』において、『羊の歌』において試みるが、これはその最初の試みである、と。
  • p205:長いあいだ私は、加藤周一は政治的アンガジュマンを避けている知識人だ、という印象を持っていた。観察はする、分析はする、提言はする、しかしそこまでで、一つの主張を実現させるために党派に加わる、党派を支持する、運動に加わるということはしない、と。
  • p239:ただ論をすすめて行く際に、私の頭の中には加藤周一を定義する言葉として常に二つの言葉があり、この言葉に導かれた。一つは〈知的アンガジュマン〉であり、もう一つは〈持続する志〉である。〈アンガジュマン〉と言うと我々の世代はすぐに政治的アンガジュマンを考えるのだが、加藤周一の場合、なんらかの共同行動を前提とする政治的アンガジュマンを語ることはふさわしくない。書斎の人として、彼は知識と言葉による――つまりはただ一人の責任による――現実参加を選んだ。その軌跡を少しでも明らかにできたとすれば幸いである。〈持続する志〉はその原点と終結点を結ぶ言葉としておのずから私のうちに住みついた。不合理と狂信への批判、反戦と民主主義への意志、権力や権威につながる栄誉(叙勲、芸術院)の拒否……。
     こうした〈知的アンガジュマン〉と〈持続する志〉の核心にあるのは、言うまでもなく彼の戦争体験であり、二十世紀体験であり、二十世紀とは何かという問いである。本の題名には悩んだが、最終的に書店の提案を受けて副題を〈二十世紀を問う〉としたのはそのためである。

 
■参考