Kadoさんのブログ

日々のあれこれを綴ります

加藤丈夫『「漫画少年」物語』

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 国立公文書館館長の加藤丈夫先生が富士電機株式会社会長時代に、講談社の編集者だった父上加藤謙一氏の仕事をまとめられた本。昨日入手してページを開いたらあまりに面白く、一気に読んでしまいました。
 占領期の雑誌創刊、手塚治虫との交流、親友・宇野親美氏のこと、戦前戦後の講談社での仕事、どれもこれも興味深く、しかしなんといっても加藤謙一氏の編集者としての一貫した姿勢に感動しました。未来を担う子どもたちの成長を見守る暖かい視線。
 2015年から何回か演奏した手塚アニメ音楽も思い出しました。「鉄腕アトム」は1963年からのテレビ放送をおそらく最初から観ていましたが、「ジャングル大帝」などは演奏を期に、息子の部屋の漫画をじっくり読んでなるほどと感激した次第。手塚治虫の活躍の土台に、加藤謙一氏の存在があったことをこの本で初めて知りました。
 本書は雑誌「東京人」2001年6月号から2002年1月号まで、8回にわたり連載されたものを、加筆編集し出版したものです。「東京人」発行人の粕谷一希氏と著者との長年の交友をまぶしく感じました。

漫画少年」物語 : 編集者・加藤謙一伝 / 加藤丈夫
 都市出版,2002
 274p ; 20cm
目次:
はじめに …2
漫画少年」の誕生 …9
 家族総出の雑誌作り/がんばる“まる子”/恩人たちの死を越えて/天才、手塚治虫の登場/投稿少年たち/「野球少年」の大ヒット
青雲の志を抱いて …85
 親友・宇野親美/「なかよし」の子どもたち/上京‐講談社
少年倶楽部」時代 …115
 佐藤紅緑との出会い/「のらくろ」ブーム/黄金時代/結婚/「講談社の絵本」の刊行/太平洋戦争
トキワ荘の漫画家たち …175
 小石川時代/トキワ荘の主‐寺田ヒロオ/漫画家のマンガのような暮らし/「漫画少年」の廃刊/手塚治虫の遺産
生涯一編集者として …231
 講談社顧問室の日々/教育者の目/生涯一編集者の誇り
エピローグ …268

あとがき …271
参考資料 …272

NDLAmazone

今年のお節(2017年大晦日)

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一の重:栗きんとん、黒豆、紅白蒲鉾、昆布巻き、伊達巻
二の重:酢だこ、コハダの粟漬け、小鯛の笹漬け、ローストビーフブロッコリー
三の重:お煮しめ(里芋、手綱こんにゃく、ゴボウ、京人参、レンコン、干しシイタケ、きぬさや)

 今年もお煮しめ以外は市販品です。黒豆は姉からもらいました。昼にいっしょに年越しそばを食べるのがこのごろの習慣です。平穏に年を越せるのは幸せなことです。

カズオ・イシグロの本

f:id:lucyblog:20171223092919j:plain  前々からエッセイなど読んで気になっていたカズオ・イシグロノーベル文学賞をとって一気に話題になりましたが、小説を初めて読んでみました。まず『日の名残り』、そして『遠い山なみの光』。
 1989年に出て英国ブッカー賞受賞の『日の名残り』は、貴族に仕える執事の物語。ヒットラーが台頭して行った時期の英国の空気は、野上弥生子が『迷路』で描いた昭和10年代日本の上流階級の空気に通じるものがあります。控えめながら底力のある筆致に圧倒されました。
 1982年の長編デビュー作『遠い山なみの光』は王立文学協会賞受賞、故郷長崎と移り住んだ英国を舞台に繰り広げられる母と子の物語。過去と現在を行き来する小説の構造は、『日の名残り』で一層読者の心理を惹きつける役割に進化しているのがわかりました。
 いずれの作品もこなれた訳文により一瞬日本文学かと思わせるものの、元は英語で書かれていることに驚愕します。そして小説という文学でしか表せない世界がある事も、読後にしみじみと感じました。国や民族の境を軽々と越境する文学。池澤夏樹が解説で「人間は互いに了解可能だという前提から出発するのが哲学であり、人間はやはりわかりあえないという結論に向うのが文学である。」と書いているのが心に残りました。

ドイツの友人とトリスタン

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 書類の山を整理していたら出てきた手紙があり、思い出した2000年秋の出来事です。

ドイツの友人 / 門倉百合子

 先日の昼下がり、Sさんと名乗る女性から電話がかかった。突然電話を入れた非礼を詫びた後、彼女はJ.マイヤーの友人の婚約者だと自己紹介した。J.マイヤー、記憶の糸を手繰り寄せ、それが25年以上昔の友人の名前であることを思い出した。頭の中をタイムマシンのように時間が逆戻りした。


 Jに初めて会ったのは、1972年夏、友人と一緒にハイデルベルクの街を散歩していた時である。大学の裏手の道を古城へ向かって進んで行くと、ローマ時代の遺跡かと思われる競技場の廃墟に行き当たった。そこで地元の青年グループが、サッカーの試合に興じていた。休憩時間に片言のドイツ語と英語で彼らとおしゃべりをし、その中の一人と住所を交換した。それがJ.マイヤーだった。翌日には私たちはハイデルベルクを離れ、夏の終わりに帰国した。友人はドイツ語をやっていなかったので、私がJにお礼の手紙を書き、それから文通が始まった。
 文通といってもドイツ語を学び始めてから1年ちょっとだったので、知っている単語を全部並び立てて書いていた。タイプもなかったので、全部手書きである。家族のこと、学校のこと、そのころ読んでいたゲーテトーマス・マンのことなどなど。2、3ヶ月に1度くらい書くと、忘れたころにJからも返事がきた。


 1974年9月、所属していた学生オーケストラのメンバーとして、ベルリンに演奏旅行した。滞在していたわずか2週間ほどの間に、Jはたまたまレガッタがあってベルリンにやってきていた。連絡をとって待ち合わせ、1回食事をしたが、Jと会ったのは後にも先にもこの2回だけ、時間にしたら合わせて3時間にも満たないのではなかろうか。ヴィエナー・シュニッツェルを食べたことは覚えているが、何を話したかは全く覚えていない。ただその時Jは、私が当時卒論で取り組んでいたトーマス・マンの短編集を1冊プレゼントしてくれた。それはいまでも大切に手元に置いてある。しかしながら翌春に大学を出たらドイツ語を使う機会もなく、手紙もいつのまにか立ち消えてしまった。
 
 あれから25年、Jは今病院関係の仕事をしていて、結婚して娘が二人いるそうだ。Sさんから届いた手紙には、Jは私を通じて「日本文化に興味を持ち、いろいろ自分でも学んだことを、本当に嬉しそうに、そして幾分誇らしげに話してくれました」とあった。なにか心がほんのりと温まる知らせだった。
(初出:『This is LISA No.39』(有限会社リサ、2000年10月15日)p2)

 「トーマス・マンの初期作品にみられる『幸福への憧れ』」と題した卒論では、『トニオ・クレーガー』はじめ初期の短編をたくさん扱いました。その中の『トリスタン』という話は、長編『魔の山』に出てくるエピソードを凝縮した作品でした。2016年11月にピアニスト三輪郁さんのリサイタルで、ワーグナー=リスト編「イゾルデの愛と死」を聴いた時、その物語をまざまざと思い出したものです。

 手元にある岩波文庫『トオマス・マン短篇集 I』(1952)の「トリスタン」から、主人公が「イゾルデの愛と死」を弾く場面を引用しておきます。翻訳は実吉捷郎。

 彼女の唇が、なんと蒼ざめてくっきりしていることか。また目頭の陰が、なんと濃くなったことか。透き通るような額の眉の上には、あの薄青い脈管が、せつなげにまた危ぶませるように、ますますはっきりと浮き出て来た。彼女のせわしい両手の下で、空前の上騰が、あの凶悪と云ってもいいほどの、にわかなピアニシモで刻まれながら、果された。足許から大地が滑り去るような、崇高な情炎の中に没入してしまうようなピアニシモである。巨大な解決と成就とが、満ち溢れるような勢いで、はじまって繰り返された。測りがたい満悦の、耳を聾するようなとどろきである。それが飽くことなく、何度も何度も繰り返された後、潮のように引き退きながら形を変えて、まさに消え入りそうになったが、もう一度あこがれの楽音を、その諧音の中へ織り込んだと思うと、息を吐きつくして、絶え入り消え果て散り失せてしまった。深い静寂。(p125)

 Jから贈られた原書のページを繰ると、194-195ページに該当の箇所がありました。最後は"Tiefe Stille."

茨城史料ネットの洗浄作業に参加

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 2017年9月14日(木)、茨城史料ネット主催の「関東・東北豪雨被災資料集中洗浄・修復作業」に参加した。豪雨といっても今年でなく2015年9月ので、被災した江戸時代からの民間文書が対象だった。会場は茨城大学水戸キャンパスなので、午前中品川から日暮里(9:15発)経由で常磐線普通電車に乗り水戸へ向かう(11:21着、2,268円)。丁度バスが来ていたので20分ほどで大学に着いた。学食で昼食を済ませ、集合場所の人文社会科学部C205教室へ行く。
 午前中の作業を終えて休憩中のメンバーが迎えて下さった。主催者の茨城史料ネット・添田仁先生を中心に、学部生と大学院生など10名ほどの参加者だった。ボランティアだと年配者ばかりを想像していたが、先生始め若い方ばかりでびっくりした。教室には乾燥・整形の済んだ資料が1点ずつクリアファイルに入れられずらりと並んでいた。中身は救済した猪瀬家資料とのこと。
 13時過ぎに始まった午後最初の作業は、ばらばらなファイルを資料ごとにまとめて段ボールにはさみ、薄(うす=薄葉紙)で縛って箱にいれるという作業。段ボールには中の資料番号をマジックと鉛筆で書きこんでおく。私は中身に慣れていないので、薄を細長く切っていく作業を担当した。
 次はいよいよ洗浄作業で、対象資料を用意して外へ出て図書館脇のスペースへ移動する。支給の布手袋とビニール手袋、マスクを付けてスタンバイ。机に置かれた四角いプラスチックのテンバコ(桶)に純水を入れ、発泡スチロールのビート版を浮かべる。その上に網(網戸のか)を置き、洗浄する文書を丁寧に置く。いっしょにある付箋は、水をちょっとつけて机の脇へ置く。水を付けるのは風で飛ばないためとのこと。こういう細かいノウハウの蓄積が大切。網をもう1枚資料の上に置き、水に浸していく。網ごと裏返して又浸しよく洗い、刷毛で中心から外側になぞっていく。
 終わったら脇に置いたセイムタオル(吸水マット)に網ごと移し、畳んだセイムタオルで上からも吸水。それから網を丁寧にはずし、不織紙をのせて裏返す。もう1枚の網も丁寧にはがし、付箋をのせてもう1枚の不織紙で挟む。これを段ボール+濾紙の上にのせ、上に濾紙と段ボールを重ねていく。
 こうした作業を2人1組になって、途中休憩をはさんで16時半まで次々にこなしていった。原資料を扱うのは緊張するが、失敗しそうになっても経験豊かなメンバーの方たちが随時フォローしてくださった。匂いがきついこともあって屋外作業と言われたが、たいして匂いは感じなかった。被災直後はかなり強烈に匂ったらしい。また蚊がしょっちゅう来るので防虫剤がしばしば登場した。それでも屋外作業は冬季にはできないので、夏期集中作業になるとのこと。
 途中で見えた代表の高橋修先生にもご挨拶した。終了後は資料と道具をそれぞれ倉庫などへ片付けるが、最初から最後まで手際よい手順で皆自主的に作業しているのに感心した。また使用した道具類は全てホームセンターで入手できるものばかりだそうで、レスキューの際入手可能なものについて東日本大震災以来のノウハウの蓄積を認識した。
 教室へ戻って17時半前に解散。バスで水戸駅へ出て常磐線に乗り21時帰宅。初心者でも少しは役に立てたかなと思う反面、若い方たちのペースを乱さなかったか気になった。しかし、こういう作業は若者だけでなく年配者こそもっと参加したいものだとつくづく思った。

いただいた主な資料

  • 身近な文化財・歴史資料を救う、活かす、甦らせる:茨城史料ネットの活動紹介パンフレット(茨城史料ネット、2014)
  • 被災した水濡れ史料の救済課程 / 東北大学災害科学国際研究所 天野真志 ((1)現状記録、(2)-30°で冷凍保管、(3)真空凍結乾燥機により乾燥、(4)現状記録&解体、(5)洗浄または簡易補修、(6)乾燥&整形)→今回は(6)と(5)を作業した)
  • 作業(1) 洗浄する被災資料の解体・記録の手引き / 茨城史料ネット、20170823
  • 関東・東北豪雨被災資集中洗浄・修復作業:これまでの経緯 / 茨城史料ネット、20170823
  • 関東・東北豪雨の水損文書に刻まれた治水の景観:猪瀬太右衛門家と「惣囲堤」 / 茨城史料ネット 添田

たからもの

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退職に際していただいたもの

  • 立派なアレンジメント、オレンジとピンク
  • イタリア産の上等な赤ワイン
  • 松徳硝子(株)製の「うすはり」ワイングラス
  • タイガーの軽い真空マグボトル
  • 絹こりこりタオル
  • 泉屋タオル店特製エプロン(一句付)
  • メッセージカード

どれも宝物です。
そして送別会デザートに書かれたメッセージも。
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大連演奏旅行余話

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 2017年9月、大連国際音楽倶楽部第23回演奏会に参加し、1日から5日まで大連へ旅行しました。今回私は5回目の参加で、現地の方々といっしょにチャイコフスキーの『悲愴』などを演奏してきました。毎年のことながら様々な困難を乗り越えての本番は、全員力を出し切って心に残る舞台となりました。ところで旅行の基本コースは三泊四日で、初日は移動、練習、宴会。二日目は練習、練習、宴会。三日目は練習、本番、宴会。四日目は帰国と、観光の時間はほとんどありません。そこで今回初めて延泊コースを選び、四日目に大連市内を観て回りました。
 最初に徒歩で行ったのは、市内中心部にある「連鎖街」です。大連は満州の入り口として戦前に何十万人もの日本人が渡り、広大な都市を築いていました。その中の商店街として1930年ころに造られた連鎖街は、「銀座通」「心斎橋通」「京極通」などと名付けられた道の両側に三階建の建物が連なっています。日本から多くの老舗が出店し、映画館や有名な俳優の事務所だった部屋もあり、水洗トイレ完備という先端の設備でした。現在は地元の人々が店を出していますが建物は古びたままで、往時の栄華は想像するのみでした。
 次にマイクロバスで向ったのは、中山(ちゅうざん)広場にある大連賓館。19世紀末にロシア人がパリを模して設計した大連の街は、日露戦争後1905年に日本の統治下に置かれました。当時は大広場と呼ばれた中山広場はロータリーを中心に十方向へ放射状に道路が広がり、役所や銀行などの立派な建物が広場を囲み、現在もほとんど往時のままの姿を残しています。その一つの大連賓館は満鉄(南満州鉄道)が経営していた旧大連ヤマトホテルで、現在も営業しており、ホテルの男性ガイドが日本語で案内してくれました。戦前は大連一の高級ホテルだったヤマトホテルには、政治家や実業家、芸術家など多くの日本人が宿泊しています。重要な政治会談が行われた大広間は往時のままの雰囲気を伝えています。ラストエンペラー溥儀が使った部屋も立派な調度品と共に見ることができ、白檀の精巧な彫り物は今もかすかな香りがしました。また各部屋に置かれていたという置時計の裏には、満鉄マークが入っていました。しかし建物設備は相当に老巧化しているので、10月から改装工事に入りしばらく休館するとのことでした。
 次は街を最初に造ったロシア人たちの住居が並ぶ、港近くの旧ロシア人街に行きました。日本橋を渡った先には美しい街並みにレンガ造りの建物が並び、教会だった建物も現在は土産物店になっています。その後現地の人たちに人気の水餃子店で、イカスミギョーザなどの昼食に舌鼓を打ちました。
 午後の最初は旧満鉄本社の見学です。1906年設立の南満州鉄道株式会社が1908年から本社としていた立派な建物は、現在は大連鉄路の事務所がはいっていて、一部が旧満鉄の陳列館となっており、職員らしき女性が日本語で案内してくれました。陳列館入り口前の大きな看板に中国語で「前言」が書いてあります。漢字から類推すると、主旨は満鉄がいかに中国人民を搾取したか、ということらしかったです。ちょっと緊張しますが、ガイドの方は丁寧に中を案内してくださいました。展示は写真パネルと「残留物」が並んだ展示ケースから構成され、パネルには創設期から各地へ線路を伸ばした発展期、特急あじあ号などが続いていました。「残留物」には満鉄が使用していた列車の部品や工具、食器、様々な刊行物や文書類、写真などがありました。次に総裁室へ行くと、初代後藤新平から第17代山崎元幹までの肖像写真がずらっと並んでいました。隣の図書室には本は無く、満鉄の組織図が掲げられていました。最後の部屋で絵葉書や写真集、切子硝子の食器などを販売していたので、写真集を買ってきました。大連切子と言われるグラスは、戦前のものには満鉄のマークが入っていて貴重品だそうです。大連の歴史の重みがぎっしりつまった見学となりました。
 その後は旧日本人街老虎灘(ろうこたん)という海岸公園などをめぐり、市街地を抜けて訪ねたのは大連ソフトウェアパーク。大連オケのメンバーであるTさんがここで仕事をしているので、概要を案内してくださいました。以前はリンゴ畑だったという丘陵地に1998年に創設されたこのパークには、世界中のIT企業が進出しています。そして日本を始め各国からITアウトソーシング業務を受注しているそうです。インキュベータのコーナーでは何人もの若者たちが、それぞれの机でPCを広げて新規事業に取り組んでいました。彼らの仕事が大きくなったら、パークの中に事務所を開いてもらう、という計画だとのこと。中国の底力、将来性を感じさせるパークですが、家賃を高くすると他へ出て行ってしまうので、経営はなかなか大変らしいです。それにしても大連の先端企業の姿を垣間見る経験でした。
 パークを後にして帰りは海上に造られた全長6.8kmに渡る星海湾大橋を走り、中心街へ向かいました。右手には夕闇迫る海、左手には新旧の街並みが広がる大連の風景(写真)。そして夕食は市内でキノコ鍋の店に集い、大連最後の夜を楽しみました。

■参考リンク

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