Kadoさんのブログ

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ドイツの友人とトリスタン

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 書類の山を整理していたら出てきた手紙があり、思い出した2000年秋の出来事です。

ドイツの友人 / 門倉百合子

 先日の昼下がり、Sさんと名乗る女性から電話がかかった。突然電話を入れた非礼を詫びた後、彼女はJ.マイヤーの友人の婚約者だと自己紹介した。J.マイヤー、記憶の糸を手繰り寄せ、それが25年以上昔の友人の名前であることを思い出した。頭の中をタイムマシンのように時間が逆戻りした。


 Jに初めて会ったのは、1972年夏、友人と一緒にハイデルベルクの街を散歩していた時である。大学の裏手の道を古城へ向かって進んで行くと、ローマ時代の遺跡かと思われる競技場の廃墟に行き当たった。そこで地元の青年グループが、サッカーの試合に興じていた。休憩時間に片言のドイツ語と英語で彼らとおしゃべりをし、その中の一人と住所を交換した。それがJ.マイヤーだった。翌日には私たちはハイデルベルクを離れ、夏の終わりに帰国した。友人はドイツ語をやっていなかったので、私がJにお礼の手紙を書き、それから文通が始まった。
 文通といってもドイツ語を学び始めてから1年ちょっとだったので、知っている単語を全部並び立てて書いていた。タイプもなかったので、全部手書きである。家族のこと、学校のこと、そのころ読んでいたゲーテトーマス・マンのことなどなど。2、3ヶ月に1度くらい書くと、忘れたころにJからも返事がきた。


 1974年9月、所属していた学生オーケストラのメンバーとして、ベルリンに演奏旅行した。滞在していたわずか2週間ほどの間に、Jはたまたまレガッタがあってベルリンにやってきていた。連絡をとって待ち合わせ、1回食事をしたが、Jと会ったのは後にも先にもこの2回だけ、時間にしたら合わせて3時間にも満たないのではなかろうか。ヴィエナー・シュニッツェルを食べたことは覚えているが、何を話したかは全く覚えていない。ただその時Jは、私が当時卒論で取り組んでいたトーマス・マンの短編集を1冊プレゼントしてくれた。それはいまでも大切に手元に置いてある。しかしながら翌春に大学を出たらドイツ語を使う機会もなく、手紙もいつのまにか立ち消えてしまった。
 
 あれから25年、Jは今病院関係の仕事をしていて、結婚して娘が二人いるそうだ。Sさんから届いた手紙には、Jは私を通じて「日本文化に興味を持ち、いろいろ自分でも学んだことを、本当に嬉しそうに、そして幾分誇らしげに話してくれました」とあった。なにか心がほんのりと温まる知らせだった。
(初出:『This is LISA No.39』(有限会社リサ、2000年10月15日)p2)

 「トーマス・マンの初期作品にみられる『幸福への憧れ』」と題した卒論では、『トニオ・クレーガー』はじめ初期の短編をたくさん扱いました。その中の『トリスタン』という話は、長編『魔の山』に出てくるエピソードを凝縮した作品でした。2016年11月にピアニスト三輪郁さんのリサイタルで、ワーグナー=リスト編「イゾルデの愛と死」を聴いた時、その物語をまざまざと思い出したものです。

 手元にある岩波文庫『トオマス・マン短篇集 I』(1952)の「トリスタン」から、主人公が「イゾルデの愛と死」を弾く場面を引用しておきます。翻訳は実吉捷郎。

 彼女の唇が、なんと蒼ざめてくっきりしていることか。また目頭の陰が、なんと濃くなったことか。透き通るような額の眉の上には、あの薄青い脈管が、せつなげにまた危ぶませるように、ますますはっきりと浮き出て来た。彼女のせわしい両手の下で、空前の上騰が、あの凶悪と云ってもいいほどの、にわかなピアニシモで刻まれながら、果された。足許から大地が滑り去るような、崇高な情炎の中に没入してしまうようなピアニシモである。巨大な解決と成就とが、満ち溢れるような勢いで、はじまって繰り返された。測りがたい満悦の、耳を聾するようなとどろきである。それが飽くことなく、何度も何度も繰り返された後、潮のように引き退きながら形を変えて、まさに消え入りそうになったが、もう一度あこがれの楽音を、その諧音の中へ織り込んだと思うと、息を吐きつくして、絶え入り消え果て散り失せてしまった。深い静寂。(p125)

 Jから贈られた原書のページを繰ると、194-195ページに該当の箇所がありました。最後は"Tiefe Stille."