Kadoさんのブログ

日々のあれこれを綴ります

1974年ベルリン

上智大学管弦楽団は1974年9月に、西ドイツのボンとベルリンで演奏会を行った。これは前年秋に来日した指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが、大学祭の折に上智大オケの練習場を訪れ、半時間ほどリハーサルをしてくれたのがきっかけだった。カラヤンが主宰するカラヤン財団では毎年ベルリンで青少年音楽祭を開催していて、各国の学生オーケストラが招かれ演奏を披露していた。その音楽祭に招待された、という訳である。

演奏する曲目は、課題曲からウェーバーの『魔弾の射手』序曲と、自由曲としてブラームスの『交響曲第4番』が選ばれた。日本人の作品もやろうと、武満徹『弦楽のためのレクイエム』も加わった。6月の定期演奏会で一通り本番をやり、夏合宿も経ていよいよ9月にボンへ向かった。

上智大学カトリックの大学であり、イエズス会のドイツ・ケルン司教区から多大な援助を受けていた。そこでドイツに演奏旅行を行うのであれば、ぜひケルンでも演奏をしたいと、当時のヨゼフ・ピタウ理事長に直談判にうかがった。すると早速様々な手配をしてくださり、ケルンの隣ボンにあるイエズス会ギムナジウム(高等学校)での公演が決まった。ボンに到着したメンバーはギムナジウムの寮に一泊し、翌日講堂での演奏会に臨んだ。そして翌朝、次の目的地ベルリンへバスで移動した。

恐らく予算の関係で空路でなく陸路になったのだと思うが、ボンから西ベルリンにバスで行くには、東ドイツ領内を横切らなくてはならない。国境では当然東ドイツの役人のチェックを受けることになる。当時私は1972年発行のパスポートを持参していて、そこには「この旅券は、北朝鮮中華人民共和国北ベトナム東ドイツを除くすべての国と地域で有効である」と英語で書かれていた。このうち北朝鮮以外はその後国交が開かれたが、私のパスポートはそのままだった。従って国境で何か言われたら大変と、ものすごく緊張したのを覚えている。幸い時間はかかったものの何事もなく通過することができ、ほっとした。東ドイツ領内はバスはノンストップでかなりの距離を飛ばし、無事西ベルリンについた。

ベルリンの壁ができたのは1961年8月。1974年当時は冷戦の真っただ中で、陸の孤島の西ベルリンは文化が爛熟し、いくらか退廃のにおいも感じられた。青少年音楽祭の期間中10日ほどの滞在だったが、東京とは全く違う空気を肌で感じたものだ。演奏会は無事終わり、自由な時間がやっとできたので、私は西ベルリンの日本領事館を訪れ、パスポートの記述を訂正してもらった。従前の記述を黒マジックで消して領事館のエンボス印が押され、その下に「This paspport is valid for All Countries and Areas Except North Korea.」というハンコが押された。忘れられない瞬間だった。
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