Kadoさんのブログ

日々のあれこれを綴ります

追悼 河島正光先生

 
河島正光(まさてる)先生が1月11日に亡くなられた、という知らせを受けた。河島先生は私にとって忘れ得ぬ恩師であり、そのことを綴っておきたい。

 1975年に私が慶應義塾大学文学部図書館・情報学科の3年に編入学した時、河島先生は兼任講師として参考調査法や専門図書館について講義されていた。私は学科の25期生だったが、先生はその学科の5期生で、大先輩であられた。卒業されてからは神奈川県立図書館に就職され、横浜紅葉山の図書館でブックモビールなどを担当されていた。その後機械振興協会(機振協)の図書館に移られ、専門図書館員として種々のレファレンスツールを開発された。その一つである『日本統計索引』を日外アソシエーツから出されたばかりで、そのことが日本経済新聞の文化欄でとりあげられ、記事をじっくり読んだのをよく覚えている。
 その頃先生は機械振興協会をやめられ河島事務所というオフィスをたちあげて独立されていた。その後産業能率短大の図書館に移られたが、何回もの転職の動機について次のように話されていた。

 最初からひとつの図書館で仕事をするつもりはなかったのです。4年単位で職場を変えようと思っていました。最初の県立図書館には6年いましたが、4年単位の1期半でした。次の機振協は10年いたので、2期半です。独立した事務所は丁度1期4年でした。現在の産能大にはいつまでいるでしょうか。図書館の種類も公共図書館専門図書館大学図書館と、いろいろめぐってきました。図書館員の技能はさまざまな場所をめぐることでみがかれていくものです。

 先生の講義の課題でよく覚えているのは、『経済白書』に登場する参考資料を追っていく、というものだった。10年分くらいの白書を端から広げて、「企業短期経済観測調査」とか、「物価統計」といった資料名と発行している日銀や経済企画庁などの機関名をカードにメモしていく。生まれて初めて接する経済資料ばかりで細かい内容はわからなかったが、タイトルと発行者については10年分の記録をとるうち頭にはいっていった。この経験は後に銀行に就職した時実に役に立った。
 「専門図書館」というものについて詳しく知ったのも、先生のおかげだった。講義だけでなく様々なアルバイトを紹介していただき、専門図書館の現場を垣間見ることが出来た。それまで町の公共図書館か通っている学校の図書館しか知らなかったので、新しい世界がぱあっと広がった思いがした。先生は情報資料研究会(JSK)という勉強会のメンバーでもいらした。それはさまざまな業種の専門図書館員の集まりで、毎月勉強会を開いて切磋琢磨されていた。私はメンバーの方たちの職場をいくつか見学させていただいたりもして、卒業後の進路はまっすぐ専門図書館の道を選んだ。そして私もいくつかの転職をし、一時期は独立もし、現在の職場に至っている。
 先生に最後にお目にかかったのは、2年くらい前のJSK解散の集まりだった。産能大を引退されていた先生は、興味のある歴史系のテーマで人物書誌をまとめられていた。簡単な冊子にして地元の図書館に寄付されるということだった。喜寿を超えられていたはずだったが昔と変わらず矍鑠としたお話しぶりだった。心からご冥福をお祈りいたします。
(2014年2月5日記)