Kadoさんのブログ

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西垣通著『集合知とは何か』

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 西垣通著『集合知とは何か』を読む。基礎情報学の視点からネット時代の「知」のゆくえを見据えたもの。統計学人工知能の話はちょっと難しかったが、いくつか興味深かったことをメモしておきたい。
 著者は小説家平野啓一郎の『私とは何か』からの知見として、近代的な個人という理念にたいする異議を挙げている。

 個人とは「西洋文化に独特のもの」であり、それをもたらしたのは「キリスト教一神教)の信仰」と「論理学」だと平野はいう。一なる神にたいしては、終始、一貫性のある「本当の自分」が向き合わなくてはならない。また、論理的にカテゴリーをわけていくと、動物があり、人間があり、国民があり、男女があり、ついに最小単位として一つの肉体をもつ「個人」ということになる。ヘブライズムとヘレニズムが西洋文化の二つの支柱であることを考えれば、まことに納得がいくではないか。
 個人のかわりに平野が主張するのは「分人」だ。「一人の人間は、『分けられないindividual』存在ではなく、複数に『分けられるdividual』存在である。だからこそ、たった一つの『本当の自分』、首尾一貫した『ブレない』本来の自己などというものは存在しない」、と平野は言い切る(平野『私とは何か』、62頁)。
 「分人」というのは、端的には「人格」や「キャラクター」のようなものだ。それは対人関係のなかで形成される。つまり、それぞれの「分人(人格)」は、両親、恋人、親友、職場の友人などといった、特定の他人との継続的な交流のなかで生まれるのである。そして、各々の分人はそれなりの一貫性をもっている(さもなければ人間関係は破綻するだろう)。要するにわれわれは個人といっても、実は「多種多様な分人の集合体」なのだ、というわけである。(p140-141)

 Facebookを始めてみると、たくさんの知り合いに対しそれまではそれぞれの顔を向けて接していたものが、顔の一面を同時にすべての「お友達」にさらすことになる、という事態を経験した。必要なら「グループ」ごとに分けることも可能だが、たいていは「今日楽しかったこと」などをすべての「お友達」に伝えることになる(伝わったかどうかは別)。平野の言う「分人」というのはとてもよくわかる。著者西垣は、「多様な人格をかかえこんだ人間がつくる社会において、人々がうまく共存できる社会的ルールをなんとかつくりあげる努力」が肝心だ、と述べている(p143)。
 もうひとつ、「閉鎖性」について。

 近年の情報社会では、「閉鎖性」というとあまり評判がよくない。何となく撲滅すべき概念だと見なされているようだ。もちろん、意図的な情報隠蔽だの密室談合だのは撲滅すべきである。だが、そういう話とは別の次元で、「透明な情報伝達」だの「フラットな社会」だのをめざせというお題目の持つ欺瞞性に気づかなくてはならない。そんなお題目は、直接民主制の名を借りた専制をもたらす恐れがある。
 完全に透明化できるのは機械間通信だけだ。誰しも、自分の内面生活や、自分の属する組織の機密が完全に暴露されることが最善だとは思わないだろう。
 第5章で紹介したシミュレーションによると、フラットで透明な社会、つまり、情報が迅速に伝わりすぎる社会で、質疑応答による議論をしていると、かえって社会は安定しなくなり、適切な秩序ができにくくなる。過度に均質化され中央集権的にされてしまうか、逆にアナーキーな無秩序状態になりやすいのだ。
 人間集団のなかに、ある種の不透明性や閉鎖性があるからこそ、われわれは生きていけるのである。情報の意味内容がそっくり他者に伝わらないというのは、本質的なことなのだ。(p207-208)

 確かにFacebookでは、それまでの師弟関係や先輩後輩といった序列が、良くも悪くもあっというまにフラットになってしまう。その中にうすぼんやりとした危険性を感じていたので、西垣の主張に思わずうなずいてしまった。彼は続いて「相対的な主観世界の併存をゆるしながら、同時に、集団内でほどほど安定した統合性やリーダーシップをみとめること。ただし、必要におうじて、リーダーを交代させること。‐‐それは、千変万化する環境条件のなかで集団生活をつづけてきた、われわれ人間という生物の究極の知恵なのである。」(p208)と述べている。
 そして、「集合知」について。西垣は「グローバルでフラットな社会がただ一つあり、開かれた存在である個人がそのなかで自在に情報を交換できるという通俗的なイメージは、捨て去ることにしよう。かわりに、ローカルな半独立の社会集団の連合体というイメージをもたなくてはいならない。」と述べている。そして「ローカルな社会集団内でのコミュニケーションの密度をあげ、活性化していくためのIT」が望まれる、言い換えると「社会集団の下位レベルにある暗黙知や感性的な深層をすくいあげ、明示化するような機能が、ITに期待される」としている(p208-9)。そしてそれを実現するような「きめ細かい技術は、日本人に向いているような気がしてならない。集合知とはもともと、共同体的な知なのである。」と結んでいる(p213)。
 本の中で学生時代に習った「サイバネティックス」という言葉に再会したが、それがその後どのような道筋をたどって今日に至ったか、納得できる読書だった。

西垣通著『集合知とは何か』中央公論新社、2013(中公新書2203)
NDLサーチ http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I024247610-00
経書評 2013.4.7 http://www.nikkei.com/article/DGXDZO53674080W3A400C1MZC001/
平野啓一郎『私とは何か:「個人」から「分人」へ』講談社現代新書2172) http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I023911121-00