Kadoさんのブログ

日々のあれこれを綴ります

ドイツの友人とトリスタン

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 書類の山を整理していたら出てきた手紙があり、思い出した2000年秋の出来事です。

ドイツの友人 / 門倉百合子

 先日の昼下がり、Sさんと名乗る女性から電話がかかった。突然電話を入れた非礼を詫びた後、彼女はJ.マイヤーの友人の婚約者だと自己紹介した。J.マイヤー、記憶の糸を手繰り寄せ、それが25年以上昔の友人の名前であることを思い出した。頭の中をタイムマシンのように時間が逆戻りした。


 Jに初めて会ったのは、1972年夏、友人と一緒にハイデルベルクの街を散歩していた時である。大学の裏手の道を古城へ向かって進んで行くと、ローマ時代の遺跡かと思われる競技場の廃墟に行き当たった。そこで地元の青年グループが、サッカーの試合に興じていた。休憩時間に片言のドイツ語と英語で彼らとおしゃべりをし、その中の一人と住所を交換した。それがJ.マイヤーだった。翌日には私たちはハイデルベルクを離れ、夏の終わりに帰国した。友人はドイツ語をやっていなかったので、私がJにお礼の手紙を書き、それから文通が始まった。
 文通といってもドイツ語を学び始めてから1年ちょっとだったので、知っている単語を全部並び立てて書いていた。タイプもなかったので、全部手書きである。家族のこと、学校のこと、そのころ読んでいたゲーテトーマス・マンのことなどなど。2、3ヶ月に1度くらい書くと、忘れたころにJからも返事がきた。


 1974年9月、所属していた学生オーケストラのメンバーとして、ベルリンに演奏旅行した。滞在していたわずか2週間ほどの間に、Jはたまたまレガッタがあってベルリンにやってきていた。連絡をとって待ち合わせ、1回食事をしたが、Jと会ったのは後にも先にもこの2回だけ、時間にしたら合わせて3時間にも満たないのではなかろうか。ヴィエナー・シュニッツェルを食べたことは覚えているが、何を話したかは全く覚えていない。ただその時Jは、私が当時卒論で取り組んでいたトーマス・マンの短編集を1冊プレゼントしてくれた。それはいまでも大切に手元に置いてある。しかしながら翌春に大学を出たらドイツ語を使う機会もなく、手紙もいつのまにか立ち消えてしまった。
 
 あれから25年、Jは今病院関係の仕事をしていて、結婚して娘が二人いるそうだ。Sさんから届いた手紙には、Jは私を通じて「日本文化に興味を持ち、いろいろ自分でも学んだことを、本当に嬉しそうに、そして幾分誇らしげに話してくれました」とあった。なにか心がほんのりと温まる知らせだった。
(初出:『This is LISA No.39』(有限会社リサ、2000年10月15日)p2)

 「トーマス・マンの初期作品にみられる『幸福への憧れ』」と題した卒論では、『トニオ・クレーガー』はじめ初期の短編をたくさん扱いました。その中の『トリスタン』という話は、長編『魔の山』に出てくるエピソードを凝縮した作品でした。2016年11月にピアニスト三輪郁さんのリサイタルで、ワーグナー=リスト編「イゾルデの愛と死」を聴いた時、その物語をまざまざと思い出したものです。

 手元にある岩波文庫『トオマス・マン短篇集 I』(1952)の「トリスタン」から、主人公が「イゾルデの愛と死」を弾く場面を引用しておきます。翻訳は実吉捷郎。

 彼女の唇が、なんと蒼ざめてくっきりしていることか。また目頭の陰が、なんと濃くなったことか。透き通るような額の眉の上には、あの薄青い脈管が、せつなげにまた危ぶませるように、ますますはっきりと浮き出て来た。彼女のせわしい両手の下で、空前の上騰が、あの凶悪と云ってもいいほどの、にわかなピアニシモで刻まれながら、果された。足許から大地が滑り去るような、崇高な情炎の中に没入してしまうようなピアニシモである。巨大な解決と成就とが、満ち溢れるような勢いで、はじまって繰り返された。測りがたい満悦の、耳を聾するようなとどろきである。それが飽くことなく、何度も何度も繰り返された後、潮のように引き退きながら形を変えて、まさに消え入りそうになったが、もう一度あこがれの楽音を、その諧音の中へ織り込んだと思うと、息を吐きつくして、絶え入り消え果て散り失せてしまった。深い静寂。(p125)

 Jから贈られた原書のページを繰ると、194-195ページに該当の箇所がありました。最後は"Tiefe Stille."

茨城史料ネットの洗浄作業に参加

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 2017年9月14日(木)、茨城史料ネット主催の「関東・東北豪雨被災資料集中洗浄・修復作業」に参加した。豪雨といっても今年でなく2015年9月ので、被災した江戸時代からの民間文書が対象だった。会場は茨城大学水戸キャンパスなので、午前中品川から日暮里(9:15発)経由で常磐線普通電車に乗り水戸へ向かう(11:21着、2,268円)。丁度バスが来ていたので20分ほどで大学に着いた。学食で昼食を済ませ、集合場所の人文社会科学部C205教室へ行く。
 午前中の作業を終えて休憩中のメンバーが迎えて下さった。主催者の茨城史料ネット・添田仁先生を中心に、学部生と大学院生など10名ほどの参加者だった。ボランティアだと年配者ばかりを想像していたが、先生始め若い方ばかりでびっくりした。教室には乾燥・整形の済んだ資料が1点ずつクリアファイルに入れられずらりと並んでいた。中身は救済した猪瀬家資料とのこと。
 13時過ぎに始まった午後最初の作業は、ばらばらなファイルを資料ごとにまとめて段ボールにはさみ、薄(うす=薄葉紙)で縛って箱にいれるという作業。段ボールには中の資料番号をマジックと鉛筆で書きこんでおく。私は中身に慣れていないので、薄を細長く切っていく作業を担当した。
 次はいよいよ洗浄作業で、対象資料を用意して外へ出て図書館脇のスペースへ移動する。支給の布手袋とビニール手袋、マスクを付けてスタンバイ。机に置かれた四角いプラスチックのテンバコ(桶)に純水を入れ、発泡スチロールのビート版を浮かべる。その上に網(網戸のか)を置き、洗浄する文書を丁寧に置く。いっしょにある付箋は、水をちょっとつけて机の脇へ置く。水を付けるのは風で飛ばないためとのこと。こういう細かいノウハウの蓄積が大切。網をもう1枚資料の上に置き、水に浸していく。網ごと裏返して又浸しよく洗い、刷毛で中心から外側になぞっていく。
 終わったら脇に置いたセイムタオル(吸水マット)に網ごと移し、畳んだセイムタオルで上からも吸水。それから網を丁寧にはずし、不織紙をのせて裏返す。もう1枚の網も丁寧にはがし、付箋をのせてもう1枚の不織紙で挟む。これを段ボール+濾紙の上にのせ、上に濾紙と段ボールを重ねていく。
 こうした作業を2人1組になって、途中休憩をはさんで16時半まで次々にこなしていった。原資料を扱うのは緊張するが、失敗しそうになっても経験豊かなメンバーの方たちが随時フォローしてくださった。匂いがきついこともあって屋外作業と言われたが、たいして匂いは感じなかった。被災直後はかなり強烈に匂ったらしい。また蚊がしょっちゅう来るので防虫剤がしばしば登場した。それでも屋外作業は冬季にはできないので、夏期集中作業になるとのこと。
 途中で見えた代表の高橋修先生にもご挨拶した。終了後は資料と道具をそれぞれ倉庫などへ片付けるが、最初から最後まで手際よい手順で皆自主的に作業しているのに感心した。また使用した道具類は全てホームセンターで入手できるものばかりだそうで、レスキューの際入手可能なものについて東日本大震災以来のノウハウの蓄積を認識した。
 教室へ戻って17時半前に解散。バスで水戸駅へ出て常磐線に乗り21時帰宅。初心者でも少しは役に立てたかなと思う反面、若い方たちのペースを乱さなかったか気になった。しかし、こういう作業は若者だけでなく年配者こそもっと参加したいものだとつくづく思った。

いただいた主な資料

  • 身近な文化財・歴史資料を救う、活かす、甦らせる:茨城史料ネットの活動紹介パンフレット(茨城史料ネット、2014)
  • 被災した水濡れ史料の救済課程 / 東北大学災害科学国際研究所 天野真志 ((1)現状記録、(2)-30°で冷凍保管、(3)真空凍結乾燥機により乾燥、(4)現状記録&解体、(5)洗浄または簡易補修、(6)乾燥&整形)→今回は(6)と(5)を作業した)
  • 作業(1) 洗浄する被災資料の解体・記録の手引き / 茨城史料ネット、20170823
  • 関東・東北豪雨被災資集中洗浄・修復作業:これまでの経緯 / 茨城史料ネット、20170823
  • 関東・東北豪雨の水損文書に刻まれた治水の景観:猪瀬太右衛門家と「惣囲堤」 / 茨城史料ネット 添田

たからもの

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退職に際していただいたもの

  • 立派なアレンジメント、オレンジとピンク
  • イタリア産の上等な赤ワイン
  • 松徳硝子(株)製の「うすはり」ワイングラス
  • タイガーの軽い真空マグボトル
  • 絹こりこりタオル
  • 泉屋タオル店特製エプロン(一句付)
  • メッセージカード

どれも宝物です。
そして送別会デザートに書かれたメッセージも。
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大連演奏旅行余話

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 2017年9月、大連国際音楽倶楽部第23回演奏会に参加し、1日から5日まで大連へ旅行しました。今回私は5回目の参加で、現地の方々といっしょにチャイコフスキーの『悲愴』などを演奏してきました。毎年のことながら様々な困難を乗り越えての本番は、全員力を出し切って心に残る舞台となりました。ところで旅行の基本コースは三泊四日で、初日は移動、練習、宴会。二日目は練習、練習、宴会。三日目は練習、本番、宴会。四日目は帰国と、観光の時間はほとんどありません。そこで今回初めて延泊コースを選び、四日目に大連市内を観て回りました。
 最初に徒歩で行ったのは、市内中心部にある「連鎖街」です。大連は満州の入り口として戦前に何十万人もの日本人が渡り、広大な都市を築いていました。その中の商店街として1930年ころに造られた連鎖街は、「銀座通」「心斎橋通」「京極通」などと名付けられた道の両側に三階建の建物が連なっています。日本から多くの老舗が出店し、映画館や有名な俳優の事務所だった部屋もあり、水洗トイレ完備という先端の設備でした。現在は地元の人々が店を出していますが建物は古びたままで、往時の栄華は想像するのみでした。
 次にマイクロバスで向ったのは、中山(ちゅうざん)広場にある大連賓館。19世紀末にロシア人がパリを模して設計した大連の街は、日露戦争後1905年に日本の統治下に置かれました。当時は大広場と呼ばれた中山広場はロータリーを中心に十方向へ放射状に道路が広がり、役所や銀行などの立派な建物が広場を囲み、現在もほとんど往時のままの姿を残しています。その一つの大連賓館は満鉄(南満州鉄道)が経営していた旧大連ヤマトホテルで、現在も営業しており、ホテルの男性ガイドが日本語で案内してくれました。戦前は大連一の高級ホテルだったヤマトホテルには、政治家や実業家、芸術家など多くの日本人が宿泊しています。重要な政治会談が行われた大広間は往時のままの雰囲気を伝えています。ラストエンペラー溥儀が使った部屋も立派な調度品と共に見ることができ、白檀の精巧な彫り物は今もかすかな香りがしました。また各部屋に置かれていたという置時計の裏には、満鉄マークが入っていました。しかし建物設備は相当に老巧化しているので、10月から改装工事に入りしばらく休館するとのことでした。
 次は街を最初に造ったロシア人たちの住居が並ぶ、港近くの旧ロシア人街に行きました。日本橋を渡った先には美しい街並みにレンガ造りの建物が並び、教会だった建物も現在は土産物店になっています。その後現地の人たちに人気の水餃子店で、イカスミギョーザなどの昼食に舌鼓を打ちました。
 午後の最初は旧満鉄本社の見学です。1906年設立の南満州鉄道株式会社が1908年から本社としていた立派な建物は、現在は大連鉄路の事務所がはいっていて、一部が旧満鉄の陳列館となっており、職員らしき女性が日本語で案内してくれました。陳列館入り口前の大きな看板に中国語で「前言」が書いてあります。漢字から類推すると、主旨は満鉄がいかに中国人民を搾取したか、ということらしかったです。ちょっと緊張しますが、ガイドの方は丁寧に中を案内してくださいました。展示は写真パネルと「残留物」が並んだ展示ケースから構成され、パネルには創設期から各地へ線路を伸ばした発展期、特急あじあ号などが続いていました。「残留物」には満鉄が使用していた列車の部品や工具、食器、様々な刊行物や文書類、写真などがありました。次に総裁室へ行くと、初代後藤新平から第17代山崎元幹までの肖像写真がずらっと並んでいました。隣の図書室には本は無く、満鉄の組織図が掲げられていました。最後の部屋で絵葉書や写真集、切子硝子の食器などを販売していたので、写真集を買ってきました。大連切子と言われるグラスは、戦前のものには満鉄のマークが入っていて貴重品だそうです。大連の歴史の重みがぎっしりつまった見学となりました。
 その後は旧日本人街老虎灘(ろうこたん)という海岸公園などをめぐり、市街地を抜けて訪ねたのは大連ソフトウェアパーク。大連オケのメンバーであるTさんがここで仕事をしているので、概要を案内してくださいました。以前はリンゴ畑だったという丘陵地に1998年に創設されたこのパークには、世界中のIT企業が進出しています。そして日本を始め各国からITアウトソーシング業務を受注しているそうです。インキュベータのコーナーでは何人もの若者たちが、それぞれの机でPCを広げて新規事業に取り組んでいました。彼らの仕事が大きくなったら、パークの中に事務所を開いてもらう、という計画だとのこと。中国の底力、将来性を感じさせるパークですが、家賃を高くすると他へ出て行ってしまうので、経営はなかなか大変らしいです。それにしても大連の先端企業の姿を垣間見る経験でした。
 パークを後にして帰りは海上に造られた全長6.8kmに渡る星海湾大橋を走り、中心街へ向かいました。右手には夕闇迫る海、左手には新旧の街並みが広がる大連の風景(写真)。そして夕食は市内でキノコ鍋の店に集い、大連最後の夜を楽しみました。

■参考リンク

三番瀬

 1999年夏の思い出。インターネットはまだ広まってなくて、Wikipediaもなかった頃です。

三番瀬 / 門倉百合子


私:夏休みの自由研究、どうするの?
次男(5年生):またどっか遠くに行きたいな(去年は羽田まで自転車で往復した)
私:どっかいきたいとこある?
次男:うんとね、鳥取砂丘
私:と、と、とっとりさきゅうって、そりゃ母さんだって行きたいけど、もっと近いところでないの?
次男:近いって関東地方?そんなら、三番瀬
私:さんばんせって何よ。
次男:え、知らないの?東京湾にある干潟だよ。


 そう言って次男は、しばらく前の「東京新聞」のコラムと、「週刊金曜日」に載っていた三番瀬の記事を持ってきた。それは東京と千葉の境目にある浅瀬で、天然の漁場であり、埋め立て計画が縮小されたことで話題になっている場所だった。守備範囲の狭い私には初耳の所である。家にある地図では詳しいことがわからないので、翌日近くの公共図書館へ二人で出かけた。
 最初に見たのは、千葉県の地図のある書架である。道路地図や区分地図、観光マップなど種々とりそろえてあるが、どれを見ても三番瀬という名前はみつからない。船橋港から東京湾へ出たあたり、ということらしいのだが、人工の海浜公園はあっても天然の浅瀬は見当たらない。検索コーナーで端末をたたいてみるが、やっぱりわからない。埋め立てが話題になっていたから、環境・公害のあたりの書架を見てみるが、それらしきものは見当たらない。ふと、水産業かな、と考え直して、そちらの書架をみてみる。すると東京湾の漁業に関する本があったのでぱらぱらページを繰ると、あったありました、やっと「三番瀬」という文字にいきあたった。次男にみせると、本文の他に後ろの見開きの地図に三番瀬の場所がちゃんとでているのを見つけて大喜び。簡単な地図なのでいまひとつはっきりした場所はわからないのだが、他にないのでとにかくその本を借りてきた。

 翌日本屋に立ち寄った際、「釣り」のコーナーに行ってみた。すると東京湾の釣り場の地図がちゃんとあるではないか。広げてみると、三番瀬の文字が船橋沖にしっかり印刷されていた。海の中なんだから、陸の地図には載っていない訳だ。ついでに釣り場のガイドをいくつか見てみるが、三番瀬というのはでてこない。もしかしたら素人は行けない場所なのかもしれない、という危惧が頭をよぎる。

 それでも8月17日、二人で行ってきました、三番瀬に。新木場から京葉線に乗って、葛西臨海公園や舞浜を通り過ぎ、市川塩浜という駅に降り立った。この駅、飲物の自動販売機のほかは、売店一つ無い殺風景な所であった。そこから10分ほど歩いて人気のない工場地帯を抜け、角を曲がって目の前に広がった海が、夢にまでみた三番瀬!(ちょっとおおげさか。)14日の台風(例の弱い熱帯低気圧)の後だったので、海水は濁って生き物の気配はなく、釣り人が何組か竿をたれているだけだった。
 干潮は午後2時すぎだったので、まだ時間があるから昼食でもと駅に戻る。といっても食べ物屋などまるで見当たらないので、丁度来たバスに乗ってちょっとさきの店でラーメンを食べた。帰りは干潮時が迫っていたので、タクシーを拾って三番瀬の辺りを告げると、釣りでなく宿題をしに来たのはめずらしいのか、親切にいろいろ教えてくれて、埠頭の先にある行徳南漁協まで連れていってくれた。
 漁協など行ったことはないが、ここまできたからにはえいっ!と次男を促し、玄関をはいってみた。するとひまそうにしていたおじさんが、外に出てきて海を見ながら、三番瀬について丁寧に説明してくれた。大きな干潟になるのは大潮のときくらいで、普段はくるぶしくらいの浅瀬だそうだ。その日は台風の後の水量なので、干潮時でもとても干潟にはならないらしい。干潟をみたいならあっちの人工の海浜公園にいってみたら、と教えてくれて、親切にも駅まで自動車で送ってくれた。こんな濁った海では漁にならないらしく、それで今日はひまだったとのこと。途中で黒い鳥が道路に横たわっていたので、「あ、カラス」とつぶやいたら、「あれは海鳥(名前はききとれなかった)ですよ。」と、ひとくさり解説してくれた。この辺りは渡り鳥の中継地点でもあるらしい。
 駅から乗り継いで、船橋海浜公園という所に行った。人工干潟でひととき、次男は満足そうにヤドカリやカニなどの生き物と戯れていた。私も海の空気に浸り、海鳥の群れを眺めて、しばし夏休みの時間を楽しんだ。
 (どなたかインターネットで「三番瀬」をひくとどんなデータがでてくるか教えてください。)■
出典:『This is LISA No.26』(有限会社リサ、1999年9月15日)p3-4

 後日談。次男は宿題を模造紙に精力的に書き込んで仕上げ、9月に提出しました。今ならスマホで写真を撮っておくところですが、記憶の中に大切にしまってあります。お名前がわかりませんが行徳南漁協の方と、タクシーの運転手さんに厚くお礼を申し上げます。なお干潟にはまった次男は翌年の夏休み、父親と二人で九州の諫早湾に行ってきました。
※写真の地図は『フィッシングマップ(海・堤防編)千葉・木更津・船橋港』(昭文社、1998)より

エリザベス・アボット『砂糖の歴史』

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 出版されてすぐ入手したものの読む機会を逸していたこの砂糖の本、奄美大島の歴史に触れてサトウキビに俄然興味がわき、一気に読んでしまいました。カナダの歴史学者が綴った紀元前から始まる甘味料の足跡ですが、本書の大半は大航海時代以降の奴隷制の歴史と重なる物語でした。イギリス、西アフリカ、中南米を結ぶ三角貿易の実態がまざまざと描かれています。19世紀に奴隷制が廃止されてからも砂糖の栽培は現在まで継続し、それを担うさまざまな人々についてもよくわかりました。毎日の食卓へ至る道筋にかくも黒い歴史が含まれることに驚いています。

砂糖の歴史 / エリザベス・アボット著, 樋口幸子訳
 河出書房新社, 2011
 20cm ; 513p
 目次:
序章 …7
第1部 西洋を征服した東洋の美味 …17
 第1章 「砂糖」王の台頭 …18
 第2章 砂糖の大衆化 …56
第2部 黒い砂糖 …93
 第3章 アフリカ化されたサトウキビ畑 …94
 第4章 白人が創り出した世界 …150
 第5章 砂糖が世界を動かす …181
第3部 抵抗と奴隷制廃止 …227
 第6章 人種差別、抵抗、反乱、そして革命 …228
 第7章 血まみれの砂糖 : 奴隷貿易廃止運動 …266
 第8章 怪物退治 : 奴隷制年季奉公制 …297
 第9章 キューバルイジアナ : 北アメリカ向けの砂糖 …326
第4部 甘くなる世界 …375
 第10章 砂糖農園の出稼ぎ移民たち …376
 第11章 セントルイスへ来て、見て、食べて! …421
 第12章 砂糖の遺産と将来 …458

謝辞 …497
訳者あとがき …500
参考文献 …513

付箋を付けたところ

  • 奴隷たちには、彼ら自身の「やる気を起こさせるための道具」があった。白人に絶え間なく監視されていたにもかかわらず、彼らは自分たちの怒りや苦痛を大声で歌ったのだ。(p105)
  • またヴォルテールの『カンディード』では、体の不自由なスリナム人の奴隷が、なぜ自分が片腕と片脚を失ったかを語る。(p111)
  • グアドループの砂糖農園主ギヨーム=ピエール・タヴェルニエ・ド・ブローニュと、その愛人でセネガル人の奴隷ナノン、そして彼らの息子ジョゼフ・ド・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュの物語は、1739年のクリスマスに始まる。(中略)父親は彼に砂糖生産のすべてを教え、母親は彼に「黒人小屋通り」つまり奴隷居住区を見せ、そこの惨めさと音楽とを教えた。(p175-176)
  • ベッグフォードはその邸宅で、誰にも真似できないほど大規模な宴会を開いた。ある晩餐会では、1万ポンドかけて600皿の料理が供された。彼は同名の跡取り息子が最高の教育を受けられるよう計らい、モーツァルトを雇ってピアノのレッスンを受けさせた。(p196)
  • ブリストルリヴァプールにも同様に、役員と選ばれた会員によって構成され、文書保管庫と運転資金を持つ「西インド協会」があった。(p204)
  • 砂糖仲買商のもう一つの重要な仕事は、農園主たちの私用品の注文を受け、包装して送ることで、その際の手数料は一切なしだった。流行の帽子や服、ピアノと楽譜、雑誌や本、パイプやマデイラ産ワイン、化粧品や薬品、塩漬けや燻製の肉といった品々で、イギリスで精製し、再輸出される白砂糖まであった。(p207)
  • 多くの奴隷は、完全に取り引きが成立するだけの金を持っていたとしてもほんの数%だけ払い残しておいた。18世紀末にキューバを訪れた博物学者で探検家のアレクサンダー・フォン・フンボルトによれば、奴隷たちがそうするのは、万一の場合、彼らの(部分的)所有者に助言や助力、または保護を求められるようにしておくためだという。(p234)
  • クリスマスは奴隷たちにとって、一年間の最大の山場だった。農園主たちは時間の浪費にいらだったが、この習慣を容認せざるをえなかった。ノーサップのプランテーションでは、「宴会と浮かれ騒ぎとバイオリン演奏」が三日間続き、別のプランテーションでは一週間かそれ以上続くこともあった。(p347)
  • ハワイの砂糖生産を支えたアジア人の年季労働者(中国人、日本人、朝鮮人、フィリピン人)の物語は、アメリカ人の農園主たちが支配階級として権力を握った時から始まった。(p403)
  • 農園主たちは、今度は日本に目を向けた。1900年には、ハワイの日本人移民は61,111人に達し、最大の民俗集団となっていた(それよりずっと少ないが、ポルトガル人やノルウェー人、ドイツ人、それに南洋諸島からの移民労働者もいた)。(p406)
  • 「ビッグ・シュガー」(大手砂糖業者)は、アメリカの独占禁止法に触れない方法をいろいろ編み出した。(中略)1986年にレーガン政権が、移民法改正に伴って不法移民の季節農業労働者約300万人に恩赦を認めた際も、ロビー活動によって砂糖労働者をその対象から外すことに成功し彼らが永住許可証とアメリカにおける合法的な地位を得る機会を奪った。(p465)

「発達障害をめぐる19の疑問」

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 児童精神科医の知人が雑誌に執筆。ジャパンマシニスト社の『Chio』(ち・お)という雑誌の114号(2017年1月)で、「発達障害をめぐる19の疑問」に6人の児童精神科医・心理士が答える特集です。目次は次の通りで、とてもわかりやすい内容でした。

特集・こどもの精神科医・心理士がこたえる「発達障害をめぐる19の疑問」
監修 石川憲彦(児童精神神経科医・Chio 編集協力人)
プロローグ:ほんとうの話をしてくれる 数少ない専門家にかぎってみた。 / 石川憲彦 …14
(1) うちの子、なんかへン!?:清水 誠(児童精神科医)さんにうかがいます
発達障害の診断には、どんな種類があるの?…21
2 小さいころの発達障害、どんな特徴があるの?…24
3 何歳から診断がつくの? 早期発見はできるの?…27
木村一優(児童精神科医)さんにうかがいます
4 育て方が悪いの? 生まれつきなの?…30
5 体質なの? 個性なの? 病気なの?…33
6 遺伝なの? 環境なの?…35

(2) どう育てればいいの?:淺野ありさ(小児科医・児童精神科医)さんにうかがいます
7 ペアレンティングってなに?…39
8 しつけ方って、ふつうじゃダメかな?…41
9 旦那が理解してくれない! どうしたら協力するの?…44
10 旦那もアスペだ! 子育てさせて大丈夫なの?…47
11 きょうだいとのバッティング、どうする?…49

(3) 保育や教育は?:山登敬之(児童精神科医)さんにうかがいます
12 「特殊な才能」を伸ばしたほうがいいの?…56
13 先生に、まわりの親に、説明っているの?…60

戸恒香苗(心理相談員)さんにうかがいます
14 これって、二次障害? 登園しぶり、分離不安、ちょっかい、徘徊、けんか…63
15 まわりからの圧力、排除、クレームはどう処理するの?…66

(4) 薬? トレーニング? 将来は……?:石川憲彦(児童精神神経科医)さんにうかがいます
16 薬って効くの? 飲んでも大丈夫なの?…71
17 トレーニングや通院をいやがるのをどう説得すればいいの?…76
18 学校は? 仕事は? 将来の進路をどうする?…79
19 コミュニケーション能力は?社会性は? どう育む?…83

エピローグ:「子は、親の思うようにはならぬ」のあとに続く金言 / 石川憲彦(児童精神神経科医)…86

 小児科医・毛利子来さん等により1993年創刊の『Chio』は、「こどもの体と心と暮らし」に関する情報と評論を提供する雑誌です。「創刊のことば」には、(1)最新の情報を、広く正確に届ける、(2)流布されている論理や学説を、分かりやすく解説し、論理的かつ実際的な評論を加える、(3)取り上げるテーマを、関連する領域にまで広げる、(4)読者一人ひとりに役立つと共に、市民運動や労働運動にも有力な資料となる内容を盛り込む、という理念が掲げられています。年4回の刊行。